記 念 碑
| 1.新幹線慰霊の碑(しんかんせんいれい) 1975年(昭和50年)2月に建立されたものですが、1975年(昭和50年)3月10日開通した山陽新幹線(岡山〜博多間)、この工事のための殉職者の慰霊のため建立されたものです。慰霊者数は145人で内トンネル事故の死者は89人、この内、山口関係者は37人を数えます。 この碑の「慰霊」の2字は、時の国鉄総裁藤井松太郎が揮豪したもので、碑の裏面には「諸霊 永久に安らかにしずまりたまわらんことを」と刻まれています。 所在地:下関市前田町2丁目(みもすそ川町との堺) |
| 2.平家の一杯水の碑(へいけのいっぱいみず) 「一杯水」は平家哀話の一つ。1185年(文冶元年)3月24日源平壇の浦合戦での話。負傷し海に落ちた平家の武将が命じゃらがら岸にたどりついた時、ふと見るとわずかな水溜りがあった。喉の渇きを覚えた武将は水を呑む。そして2杯目も。ところが1杯目は真水であったはずが2杯目は塩水にかわっていたそうです。 所在地:下関市前田2丁目(国道9号線沿いレストランしずかのそば) |
| 3.前田御茶屋台場跡の碑(まえだおちゃやだいばあと) この地は、古代に新羅(しらぎ)・百済(くだら)からの使者を接待し、宿泊にあてる「穴門館」があったところではないか言われています。また、元禄年間第3代長府藩主毛利綱元(つなもと)がこの地を御茶屋に充てたという。その後、文久年間には長州藩が攘夷のために砲台を築いた所です。 所在地:下関市前田2丁目 |
| 4.平家塚・旗かけの松跡の碑(へいけづか・はたかけのまつあと) 功山寺前に野久留米街道と呼ばれる旧街道があります。前田方面に向かいしばらく歩くと右手に折れ、そこに平家の人々が落ちのびたと伝えられる高畑の集落があります。この道そばに「平家塚」と刻まれた碑があります。 この碑の横をさらに山奥へ進むと広場に出ます。さらに森の中に進むと視界が急に開け畑を横切ると墓地に出ます。男墓・女墓と分けられた珍しい墓地の一角にこの「旗掛けの松跡」の碑があります。壇ノ浦で源氏に敗れた平家の落ち武者や女官たちは奥へ奥へと逃げ延び、疲れ果てた身をひきづりながらようやくこの地に辿り着く。周囲の明るさにほっとした武者は、重い赤旗を近くの松の木に立てかけ、ひとときの休息をむさぼったと伝えられています。 所在地:下関市高畑町 |
| 5.軍神広瀬中佐亡友展墓記念碑(ぐんじんひろせちゅうさぼうゆうてんぼ) 所在地:下関市野久留米町 |
| 6.高杉晋作回天義挙之所の碑(たかすぎしんさくかいてんぎきょのところ) 所在地:功山寺内(下関市長府川端1丁目) |
| 7.不許葷酒入山門の碑(くんしゅさんもんにいるをゆるすさずのひ) 所在地:功山寺内(下関市長府川端1丁目) |
| 8.高杉晋作回天義挙像(たかすぎしんさくかいてんぎきょぞう) 所在地:功山寺内(下関市長府川端1丁目) |
| 9.七卿遺蹤の碑(しちきょういしょうのひ) 所在地:功山寺内(下関市長府川端1丁目) |
| 10.服部潜蔵墓誌銘の碑(はっとりせんぞうぼしめいのひ) 所在地:功山寺内(下関市長府川端1丁目) |
| 11.和敬の碑(わけいのひ) 功山寺山門に向かって右手の木立の中に「和敬」を刻まれた自然石の小さな碑があります。建立者は「茶道裏千家淡交会下関支部」。茶道具の一つ茶筅(ちゃせん)の供養塚です。 「和敬」とは「和敬静寂」からとったもので「互いに心を開き仲睦まじく、尊敬し合い、心の中から清らかであり、どんなときにも動じない心を持つこと」という意味で、茶道の心を凝縮し全てが表現されている言葉といえよう。 所在地:功山寺内(下関市長府川端1丁目) |
| 12.航空界洋装界・功労者佐村福槌君夫妻之碑 (こうくうかいようそうかい・こうろうしゃさむらふくつちくんふさいのひ) この碑は高さ4.5メートルで功山寺山門近くにあります。碑文は明治・大正・昭和 にわたり評論家として活躍した徳富蘇峰(とくとみそほう:1863〜1957)により、関門洋裁学校創立30年を記念して、1953年(昭和28年)同校の卒業生・在校生並びに航空関係者らが建てました。 佐村夫妻は航空界に於て東洋人として最初の開拓者であり、また洋装界に於て我が国最初の公認洋裁学校“関門洋裁学校 を開校したのです。 所在地:功山寺内(下関市長府川端1丁目) |
| 13.洗心功徳水の碑(せんしんこうとくすいのひ) 功山寺山門に入る石段の左手の水路下に、水溜が造られ、そばにこの碑が立っています。小さな地蔵を抱いた碑は、1894年(明治27年)頃、桂弥一が、墓地境内に泉水を造った時に建てられたものです。 所在地:功山寺内(下関市長府川端1丁目) |
| 14.尊攘堂並に万骨塔建設由来の碑 (そんじょうどうならびにばんこつとうけんせつゆらいのひ) 長府博物館玄関に向かって右側にこの碑があります。「尊攘堂」は、吉田松陰が遺書として書いた「留魂録」の言葉からとったものです。松陰が考えた尊攘堂は、あらゆる身分の者の入学を許し、入寮寄宿もできる設備を整えたいわゆる開かれた教育の場、つまり松下村塾を大規模にした教育施設の構想であったという。長府に創設された資料的な尊攘堂とはいささか意味が違っているが、志士達の顕彰をはかり広く一般に公開することを通じ、精神的な教導の場とすることの意図は松陰の志を受け継ぐものといえよう。 松陰はこの志を入江九一に託します。しかしながら入江は松陰処刑後、わずか4年で世を去ります。時は移り、同じく松陰門下生の品川弥二郎がこの遺書を水戸で発見し、その志を受け1887年(明治20年)京都に尊攘堂を建てるのです。 弥二郎はさらに、長門国に尊攘堂建設を思いつき、親交の深かった桂弥一に託すのです。弥一は1932年(昭和7年)品川弥二郎の33回忌に起工式を行い、翌8年10月20日尊攘堂と万骨堂の竣工式を挙げ開館したのです。東洋式鉄筋コンクリート造平屋外壁石畳屋根瓦葺き、耐震耐火の建物は工事費約6万円。建設工事に従事した人数6,950人。収蔵資料は維新資料・乃木資料など約200点で発足しました。 所在地:下関市立長府博物館(下関市長府川端1丁目) |
| 15.鮎川家供養記念碑(あゆかわけくようきねんひ) 功山寺の墓地中央奥に、ひときわ人目をひく観音立像が刻まれた三重の塔に似せた石 塔があります。鮎川家の墓所があったところで、1938年(昭和13年)11代当主義介が先祖の墳墓を多磨霊園に移したため、かつて墓所があったことを記念して供養塔を建てたのです。 また、この記念碑の近くには、明治維新で活躍した山県有朋の歌が刻まれた「豊永長吉」の墓があります。 所在地:功山寺内(下関市長府川端1丁目) |
| 16.瀧川辨三彰功の碑(たきがわべんぞうしょうこうのひ) 笑山寺の山門をくぐると左手に高さ3.9メートルの大きな碑があります。碑の題字は、実業家渋沢栄一(しぶさわえいいち:1840〜1931)の揮毫(きごう)、撰文は尊攘堂(現下関市立長府博物館)を建てた桂弥一。 瀧川辨三が荒廃していた笑山寺を修復したことが縁で、この場所に碑が建てられました。瀧川辨三は「日本のマッチ王」と異名をとり、神戸商業会議所会頭など多くの要職を務めた人です。 所在地:笑山寺内(下関市長府川端2丁目) |
| 17.桂彌一爺旧邸の碑(かつらやいちおうきゅうていのひ) 壇具川沿いに山手に向かって行きますと、川中橋という小さな橋があります。渡ると左手に私財を投げ打って、尊攘堂(現下関市立長府博物館)を建てた桂弥一の旧邸があり、碑は玄関右側にあります。 現在、旧邸は骨董屋となっており、桂弥一の遺品などもあり訪れる人々に喜ばれています。 所在地:下関市長府川端2丁目 |
| 18.豊浦池旧跡の碑(とよらのいけきゅうせきのひ) この碑は宮前通りの古江小路の一隅に、注連縄(しめなわ)が張り巡らされたところにあります。碑の背後には大きなむくの木を背負い、ちいさな茂みに囲まれた中にある。水もなく池の跡らしい形は残っているのものの見落としやすい。豊浦池は二つあり、もう一つは、長府毛利邸の入口右側の近くにありましたが、事故が起こったため埋めてしまいました。古くは仲哀天皇が舟遊びをしたと伝えられているように、かつてひとつの池であったものが、町が出来るにしたがって埋められていき、小さな池が両端に残ってしまったものと思われています。 所在地:下関市長府古江小路町 |
| 19.土肥次郎実平之城址碑(どいじろうさねひらのじょうしひ) この碑は土肥山団地(侍町1丁目)にあり、1922年(大正11年)3月桂弥一が建てたものです。源平合戦の頃、追補使(ついぶし)土肥次郎実平が、平家の残党を鎮めたときこの山を居城としていたので、この名がついたと言われています。 碑は、はじめ山頂の奥深く石造の「石造五重塔」と共に建っていたが、昭和58年頃開発されて住宅地となったとき、「石造五重塔」は長府博物館へ、「城址の碑」は現在地へ移されました。 所在地:土肥山公園内(下関市侍町1丁目) |
| 20.敬業館及集童場跡の碑(けいぎょうかんおよびしゅうどうじょうあとのひ) 所在地:下関市長府侍町2丁目 |
| 21.仲哀天皇御殯斂地の碑(ちゅうあいてんのうごひんれんちのひ) 日頼寺の石段を登り、山門をくぐると右手に裏山に通じる小道があります。その小道を登ると、鉄柵で囲まれ注連縄(しめなわ)が張り巡らされ、中央に小石を積み重ねた塚があります。その入口右側にこの碑が建っています。「殯斂」とは遺体を棺におさめたまま、しばらく仮に安置しておくことをいいます。つまり、仲哀天皇の遺体を仮安置したという処であります。現在、宮内庁管轄の地です。 所在地:日頼寺内(下関市長府侍町1丁目) |
| 22.伏見宮博恭王殿下上陸記念の碑(ふしみのみやひろやすおうでんかじょうりくきねんのひ) 高さは台座を含め4m余りで、碑文上部には水上飛行機の絵が浮き彫りされている。1934年(昭和9年)3月14日軍令部総長元帥海軍大将大勲位四級、伏見宮博恭王殿下は、海軍志願兵の募集状況を視察のため、呉市から空路呉鎮第一号水上飛行機にて飛来した。これを記念し建立されたもの。 所在地 下関市長府外浦町、旧水族館前バス停横 |
| 23.芸術は魂のたべものの碑 昭和58年11月18日開館した下関市立美術館、。この碑は名誉館長河村幸次郎の米寿を記念し、野外彫刻モニュメント「文字産む石」とともに、美術館内北側庭園に昭和62年8月13日除幕されました。 「芸術はたべもの」とは、河村幸次郎が生前よく話していた言葉。「物質だけに満たされようとするのではなく、芸術に親しみ精神的にも満たされる時を過ごして欲しい」という意味の願いがこめられています。 所在地 下関市立美術館(下関市長府黒門東町) |
| 24.長府藩報國隊顕彰之碑(ちょうふはんほうこくたいけんしょうのひ) 所在地 豊功神社内(下関市長府宮崎町) |
| 25.櫛崎城址の碑(くしざきじょうしのひ) 豊浦高校のグランド横から豊功神社に向かって行くと右側に石垣があり、碑はこのそばに建っています。1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いにより、毛利氏は防長二州に減封されました。これにより毛利秀元が長府藩初代藩主となり、同年11月2日櫛崎城を居城と定めましたが、1615年(元和元年)閏6月13日幕府の一国一城の令により、取り壊され櫛崎の居館は現在隣接する豊浦高校の敷地に置かたのです。 所在地:下関市長府宮崎町(下関水族館近く) |
| 26.維新発祥の地の碑(いしんはっしょうのちのひ) 長府商店街、西京銀行前の三角地に碑があります。この碑は重さ12トン。阿武郡川上村奈古尾産の疑灰石を使用乃木流水石会師範の中市石山氏が設計したものです。そばには奇兵隊の帽子とまといをデザイン化した高さ12メートルのステンレス製のシンボルタワーが建っています。 所在地:西京銀行前三角地(下関市長府中浜町) |
| 27.数方庭由来の碑(すほうていゆらいのひ) 忌宮神社境内、西側表参道鳥居から境内に入り右側、神功皇后が戦勝を祈って植えられたと伝えられる「さかまつ」の碑と並んで建っています。数方庭は、忌宮神社広庭に棚で囲まれた「鬼石」があります。この鬼石の周囲を太鼓と鉦(かね)の音に合わせ、大幟を持った男たちが回る。「スッポウデン」「スホウテイ」等とも呼ばれ、毎年8月7日から13日まで行われる忌宮神社例祭りのなかでも重要な神事で、毎年多くの人々が訪れています。 1957年(昭和32年)4月山口県無形民俗文化財に指定されています。 所在地:忌宮神社内(下関市長府宮の内町) |
| 28.原田政佳翁彰功の碑(はらだまさよしおうしょうこうのひ) 29歳で豊浦村ほか2村1町の戸長になり、以後村長・町長を50年間務め、終始長府の発展に骨身を削り、常に「長府はわが家、町長はその家長、道路はわが家の廊下の延長である」と言った原田政佳。彼の功績を後世に伝えるため、13回忌の昭和33年顕彰会を発足し会員制による募金活動を実施し建てられました。 現在、忌宮神社境内の長府図書館そばに建てられています。 所在地:忌宮神社内(下関市長府宮の内町) |
| 29.蚕種渡来之地碑(さんしゅとらいのちひ) 忌宮神社境内の奥、長府図書館横に高さ6.4メートル、重さ38トンの市内最大のこの碑があります。1933年(昭和8年)12月大日本蚕糸会(さんしかい)の募金により建てられました。石は山口市秋穂産出のものです。西暦195年、秦の始皇11世の孫功満王が豊浦宮(長府忌宮神社境内)の仲哀天皇へ蚕種を献上したと言われています。蚕種とは「かいこの卵」を意味し、まゆの渡来地として盛大な蚕種祭が行われていましたが、戦争で中断され、近年復活されました。我が国のシルクロードはこの地が出発点なのです。 所在地:忌宮神社内(下関市長府宮の内町) |
| 30.集童場場長室の碑(しゅうどうじょうじょうちょうしつのひ) 所在地:忌宮神社内(下関市長府宮の内町) |
| 31.豊浦皇居址の碑(とよらこうきょあとのひ) 忌宮神社の境内、集童場場長室のすぐそばにあります。日本武尊(やまとたけるのみこと)の第2皇子として生まれた仲哀天皇が、西暦193年九州の豪族熊襲(くまそ)の反乱を知り、平定のため仮皇居“豊浦宮 を長府忌宮神社境内に建て、西暦200年までの7年間神事を行ったと言われています。 所在地:忌宮神社内(下関市長府宮の内町) |
| 32.塾桜柳停の碑(かじゅくおうりゅうていのひ) 桜柳停とは福田扇馬が開いた私塾。誰もが教育を受けられることを目的とした塾で、桜と柳の樹が多くあったことから名付けられと言います。その後、この塾を元に長府の松下村塾と言われ乃木希典など多くの偉人を輩出した集童場が設立されました。この碑は、忌宮神社境内の長府図書館側にあり、「集童場場長の碑」と並んで建てられています。 所在地:忌宮神社内(下関市長府宮の内町) |
| 33.熊野則之君紀念之碑(くまののりゆきくんきねんのひ) 忌宮神社宝物館裏の駐車場に、その碑があります。背丈が7メートルと市内では最も高いのではと思われるほどの高い碑です。1889年(明治22年)5月松下村塾と言われた集童場門下生の乃木希典・桂弥一・瀧川辨三・服部潜蔵らによって建てられ、書体の題字は明治維新で活躍した山県有朋が揮毫(きごう)し、碑文は集童場門下生の金子豪介が書きました。 所在地:忌宮神社内(下関市長府宮の内町) |
| 34.乃木旧邸の碑(のぎきゅうていのひ) 乃木神社境内の西隅、横枕小路に面して旧邸があります。建物は乃木希典と親しかった桂弥一の照会で乃木自身が描いた平面略図をもとに、1914年(大正3年)乃木記念会が復元したものです。 建物の面積は27.23平方メートル。6畳・3畳押入と6.5平方メートルの土間という質素な造りで、もともと門長屋であった建物をそのままむ住宅に用いたもののようです。碑はその旧邸のそばにあります。乃木神社の境内西隅、横枕小路に面して碑があります。 所在地:乃木神社内(下関市長府宮の内町) |
| 35.国分寺跡の碑(こくぶんじあとのひ) もともとは覚苑寺に通じる十字路、つまり吉岡家の説明板があるところにありました が、1983年(昭和58年)頃現在地の吉岡家の右側に移されました。 所在地:吉岡家右前(下関市長府宮の内町) |
| 36.狩野芳崖坐像の碑(かのうほうがいざぞうのひ) 覚苑寺の境内中央の石段をのぼると左側に絵筆を持った近代日本画の父と呼ばれた狩野芳崖の坐像があります。芳崖生誕150年(昭和54年)11月4日芳崖再建委員会により建てられました。 銅像は下関市出身で一元会、創造美術会会員の彫刻家中村辰治氏が製作されました。元々は1923年(大正12年)11月に芳崖35回忌を記念し、建てられたのですが、1943年(昭和18年)4月26日太平洋戦争のため供出され、台座だけが残されていたのです。 序幕式は雨降りしきる中行われ、芳崖の孫狩野辰雄氏と製作者中村辰治氏により序幕されました。 所在地:覚苑寺内(下関市長府安養寺3丁目) |
| 37.史蹟長門鋳銭所阯の碑(しせきながとちゅうせんしょあとのひ) 日本最初の貨幣「和同開珎」が鋳銭された場所。1921年(大正10年)の発掘調査で、銭の型・坩堝(るつぼ)・ふいごなどの資料が発見され、1929年(昭和4年)12月17日国の史跡に指定されました。この碑は1933年(昭和8年)9月に建立されたものです。 所在地:覚苑寺内(下関市長府安養寺3丁目) |
| 38.狩野晴皐墓誌(かのうせいこうぼし) 狩野晴皐は、のち近代日本画の父と云われ活躍した狩野芳崖の父。 覚苑寺内にある墓所の入口に「狩野晴皐墓所」の碑があります。 所在地:覚苑寺内(下関市長府安養寺3丁目) |
| 39.烈女佐津加賀見山お初の碑(れつじょさつかがみやまおはつのひ) 佐津は本名松田さつ。1701年(元禄14年)3月3日長府藩士松田助八の娘という。父と共に江戸に住んでいたころ浜田藩の中老瀧野(ちゅうろう たきの)に仕える。1724年(享保9年)4月3日烈女といわれる事件が起こる。 側女みち(瀧野)が局沢野の草履を履き違えたために、沢野から辱めを受ける。これがもとで、みちは自害する。このことを知った侍女佐津は復讐を思いたち本懐を遂げる。これが世にいう、草履打ち事件として伝えられる。佐津は事件後自殺を考えたが、真相を知った藩主はこの忠義心に感心、名を松尾と改めさせ、のちには浜田藩主と結婚させたという。(異説あり) 所在地:本覚寺内(下関市長府中之町6ー8) |
| 40.田上菊舎頌徳の碑(たがみきくしゃしょうとくのひ) 徳応寺山門に向かって左側に「女流俳人一字庵菊舎の墓と句碑」と刻まれた碑があります。菊舎の墓碑は、この山門を入り左側「一字庵菊舎尼墓」と書かれ墓地群の中にあります。頌徳の碑はこの墓碑のそばにあります。 所在地:徳応寺内(下関市長府金屋町) |
| 41.植村精吾墓誌銘(うえむらせいごぼしめい) 女流俳人田上菊舎の研究第1人者である植村精吾の墓碑。「吾は努力なり」と刻まれいる。この墓碑は彼が生前に傾倒していた文芸家評論家高山樗牛(たかやまちょぎゅう)の墓碑に似せて造ったものと言われています。 所在地:大乗寺内(下関市長府金屋町) |